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今日のおつまみは樺太シシャモと焼きナス

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小さな晩酌の夜に

一日の終わり、部屋に灯りをひとつ落とすと、静かな時間がはじまります。外の喧騒も、誰かの声も、もうここには届かない。机の上に並ぶのは、ほんのささやかな肴と一杯の酒。豪華さはないけれど、こうして自分だけの晩酌を整えると、不思議と心がほどけていくのです。

今日選んだのは、樺太シシャモと焼きナス。冷蔵庫に残っていた小さな幸せが、まるで今夜を待っていたかのように姿を見せます。香ばしい匂いに誘われて、グラスを口に運ぶと、苦みと香りがじんわりと体に沁み込む。SNSをやめてからというもの、こんな時間をより深く味わえるようになった気がします。

小さな晩酌は、決して特別なものではないけれど、日常にささやかな光をともしてくれる儀式のようなもの。今日もまた、そんな夜が静かに始まります。


樺太シシャモ、じんわり脂のにじむ幸せ

七輪にかけた網の上で、樺太シシャモが静かに音を立て始める。脂がじわりとにじみ、焦げた香りが部屋に広がっていくその瞬間こそ、晩酌の醍醐味かもしれません。小さな魚ながら、その存在感は決して侮れない。頭から丸ごと頬張れば、香ばしさとほんのりとした苦みが口いっぱいに広がり、淡い身の甘さがそれを優しく包み込みます。

一匹、また一匹と箸を伸ばすたびに、今日はよく働いたなと自分を許してあげたくなる。日々の疲れを癒すのは豪華なごちそうではなく、こうした素朴な一皿なのだと気づかされます。樺太シシャモは、ただの肴ではなく、ささやかな幸福を思い出させてくれる灯りのような存在。酒と共に喉を通るたび、胸の奥に小さな温もりが宿っていくのです。


焼きナスに宿る、夏の名残と少しの寂しさ

じっくりと炙られたナスの皮を剥ぐと、湯気とともにあらわれる透き通るような果肉。そのやわらかさは、箸で触れるだけで崩れてしまいそうで、思わず大切にすくい上げたくなります。口に含めば、ほんのり甘く、そして少しばかりの煙の香りが舌に残る。そこに醤油を一滴たらすと、焼きナスはようやく完成するのです。

夏の夕暮れに縁側で食べた記憶がふとよみがえるようで、胸の奥に淡い寂しさが差し込みます。賑やかな季節は過ぎ去り、秋の気配が近づいていることを告げる味。焼きナスはただの野菜料理ではなく、季節の移ろいを教えてくれる小さな風景のようなもの。晩酌の盃を傾けながら、今夜もまた、その淡い余韻に身をゆだねてしまいます。


SNSをやめた夜は、静かにおつまみと向き合う

かつては、晩酌のひとときにも手元の画面を眺めていました。誰かの声に追われ、写真の洪水に飲み込まれ、気づけば肴の味すら覚えていない夜もあったのです。けれど、SNSをやめてからは時間の流れが変わりました。樺太シシャモの香ばしさや、焼きナスのやわらかい舌触りといった当たり前の味わいに、ようやく心がとどまるようになった気がします。

静かな夜、テーブルに並ぶのは小さな肴と酒だけ。そこに映るのは、誰かの承認でも、流行の話題でもなく、自分自身の一日。おつまみを口に運ぶごとに、今日の疲れやささやかな喜びが浮かび上がってくる。SNSのざわめきが消えた分、心の中の声が少し大きく聞こえるようになり、その声とともに杯を重ねる夜は、不思議と哀愁を帯びながらも心地よいのです。


今日を終える言い訳に、肴があればいい

一日の終わりをきちんと締めくくる理由なんて、本当は必要ないのかもしれません。それでも、机の上に小さなおつまみが並ぶと、「今日はよくやった」と自分に言い訳できる気がするのです。樺太シシャモの香ばしい余韻も、焼きナスのほろ苦い甘さも、どちらもありふれた肴にすぎないけれど、その存在が夜をやわらかく照らしてくれる。

SNSを閉じ、誰かの視線を意識しない時間にこそ、本当に味わえる静けさがあります。晩酌とは、ただ酔うための習慣ではなく、日々の小さな心の置き場。明日の不安や今日の疲れも、杯を傾けるうちに静かに溶けていく。結局のところ、肴があればそれだけでいい――そう思える夜がある限り、きっと私はまた明日もここに座るのです。


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