前回の記事で書いたように、トラックボールマウスは私にとって「まだ触れていないけれど、心惹かれる存在」だった。
その憧れはやがて現実の選択肢となり、Amazonの画面に並ぶ二つのモデルの前で、私は立ち止まることになる。
エレコムの「M-IPT10MRSABK」、そして ロジクールの「MX Ergo S」。
どちらも魅力的で、どちらを選んでも間違いはないはずだ。
それなのに――私の心は揺れ続ける。
道具を選ぶはずが、まるで自分自身の生き方を選ぶような小さなドラマに変わっていったのだ。

トラックボールマウスに心を預けた夜
夜更け、机の上の明かりだけが小さな島のように浮かんでいた。
仕事でも趣味でも、いつもより長くパソコンに向かう時間が続くと、不思議と「道具」への意識が強まっていく。キーボードの打鍵音、ディスプレイの淡い光、そして――カーソルを操るために欠かせない存在。そう、マウスだ。
けれど、ただのマウスでは物足りなくなっていた。指先に残る疲労感、手首の重さ。長い時間を共にするなら、もっと「寄り添う」存在が欲しい。そこで浮かび上がったのが、トラックボールマウスという選択肢だった。
指先でボールを転がすだけで、カーソルは軽やかに動き、手首は静かに休まる。まるで自分の作業を支えてくれるパートナーが現れたような感覚。検索窓に「トラックボールマウス」と打ち込んだ瞬間、数多の候補の中で二つの名前が心に残った。
ひとつは、エレコムの「M-IPT10MRSABK」。
黒を基調とした洗練されたフォルムが、都会的な冷たさと安心感を併せ持つ。指先をそっと受け止めてくれるようなデザインに、「これなら長く付き合えそうだ」という予感が芽生えた。
もうひとつは、ロジクールの「MX Ergo S」。
その名の通り、実用性を突き詰めた頼もしさが漂っている。可動式のヒンジが手の角度に寄り添い、疲れを減らす工夫が詰め込まれている。その姿に、「作業の相棒としての確かさ」が透けて見えた。
どちらも評判は上々で、選べば後悔はないだろう。むしろ、どちらを手にしても満足する未来が待っている。――それなのに、なぜだろう。
選択のはずが、心は静かに揺れ始める。洗練と安心感、実用と頼もしさ。その間を行き来するたびに、自分の中の小さな葛藤が顔を出す。
買い物とは、本来は合理的な決断で終わるはずのものだ。スペックを比べ、値段を比べ、自分に必要なものを選ぶ。ただそれだけでいい。
けれど、この夜の私は、もうその段階を超えていた。スペック表やレビュー記事を眺めながら、心は数字ではなく「感情」の領域に踏み込んでいたのだ。
――これは単なる道具選びではない。
二つのトラックボールマウスの間で揺れる、自分自身の心を確かめる小さな物語。
次のクリックひとつで、未来の作業環境が決まる。そんな些細な出来事にさえ、どこか切なさを感じてしまう。
そして気づく。買い物は選択ではなく――言い訳を探す旅なのかもしれない。
エレコム【M-IPT10MRSABK】 ― 洗練の影に宿る憧れ
はじめて写真で目にしたとき、心がわずかに震えた。
それが、**エレコムの「M-IPT10MRSABK」**だった。
黒を基調としたボディは、余計な装飾を削ぎ落とし、ただ「静かな存在感」だけをまとっている。無駄のないデザインは、机の上に置くだけでひとつの風景を完成させるようだった。私はその姿に「洗練」という言葉の意味を改めて知った気がした。
スペックやレビューを読み込めば確かに信頼できる数字が並んでいる。安定感のある操作性、握ったときにすっと馴染む形状。だが、私が心を惹かれたのは、そうした数値ではない。写真越しに漂ってくる「安心感」だった。
長い作業の途中で、ふと指先を休めるとき。沈黙の中でも、そこに静かに佇むだけで「大丈夫」と囁いてくれそうな穏やかさ。
買い物という合理的な選択の裏に隠れているのは、そんな「情緒的な欲望」なのだと気づかされる。
私は思う。
――本当に欲しいのは、効率や数値の裏側にある「安心して作業できる環境」ではないだろうか。
M-IPT10MRSABKの写真を見ていると、自分の机の上にすっと溶け込む情景が浮かんでくる。散らかった資料の横で、無駄なく、誇らしげに、しかし主張しすぎることなく存在するその姿。そのイメージが、まるで未来の自分を先取りするように胸に広がる。
「これを選べば、間違いなく後悔はしない。」
そんな確信が、まだ手に取ってもいないのに湧き上がってくる。
けれど同時に、その「正解らしさ」が逆に私をためらわせる。
あまりに堅実で、あまりに完成されているがゆえに、自分の心のどこかが「遊び心を欲しているのではないか」と囁いてくるのだ。
人はときに、完璧さよりも不完全さに惹かれる。理にかなった選択よりも、少しの無謀さに心を委ねたくなる。M-IPT10MRSABKは、私にとって「理性的な答え」でありながら、その冷静さが逆に揺さぶりをかけてくる存在だった。
選択は、もう少し先送りにしよう。
その夜私は、ブラウザのタブを閉じることなく、ただ「欲しい」という感情の影に寄り添いながら、次の候補――ロジクールの「MX Ergo S」へと心を向けていった。
ロジクール【MX Ergo S】 ― 頼もしさに抱かれる瞬間
次に心を奪ったのは、**ロジクールの「MX Ergo S」**だった。
その姿を目にしたとき、M-IPT10MRSABKとは異なる響きが胸の奥に届いた。洗練というよりは「堅実」、憧れというよりは「安心感」。頼れる友のように、静かに寄り添ってくれる未来が見えた。
このマウスの特徴のひとつに、可動式のヒンジがある。角度を変えることで、手首の負担を減らし、自分に合った姿勢を見つけられる。数字で語れば ergonomics(人間工学)という響きに収まるのかもしれない。けれど、実際にその構造を知ったときに浮かんだのは、ただひとつの感情だった。
――「ああ、これはきっと、疲れを理解してくれる道具だ」。
長い時間、同じ姿勢で作業を続ければ、体は確実に悲鳴を上げる。集中の裏側で少しずつ積み重なる疲れ。その蓄積を「分かっているよ」と受け止めてくれるような存在が、MX Ergo Sにはあった。
レビューを読み込むと、多くの人が「一度慣れると手放せない」と口にしている。その言葉ににじむのは、数字以上の「信頼感」だ。
単なるガジェットではなく、日々を支える伴走者。私が求めているのは、まさにそうした「実用と安心感の融合」なのだと気づく。
不思議なことに、写真を見ているだけで、使っている自分の姿が鮮明に浮かんでくる。仕事に没頭する夜、無造作に手を置けば、自然に馴染み、カーソルが思うままに走っていく。手首の重さを忘れ、ただ「作業そのもの」に没頭できる。そんな未来を思わせるのが、このMX Ergo Sだった。
M-IPT10MRSABKが「洗練された理性の象徴」だとすれば、MX Ergo Sは「安心を約束する現実的な選択」だ。どちらを選んでも正解。むしろ、正解でしかない。それなのに、心は簡単には答えを出せない。
頼もしさは、時に重さにもなる。安心感は、時に退屈へと繋がる。
――それでも、人は安定を欲してしまう。揺れる自分をなだめるように、「安心を選んでもいいのだ」と言い聞かせながら。
その夜、私はまたひとつタブを閉じられずにいた。
M-IPT10MRSABKが放つ洗練の影と、MX Ergo Sが与える頼もしさ。その二つの間で、選べない心の揺れはますます深くなっていった。
二つの軌跡、交わらぬ選択 ― 揺れる心の真ん中で
夜ごと、私のブラウザには二つのタブが並んでいる。
ひとつには、エレコムの 「M-IPT10MRSABK」。洗練のデザインが、静かに憧れを呼び起こす。
もうひとつには、ロジクールの 「MX Ergo S」。確かな実用性が、頼もしさを訴えかける。
それぞれがまったく異なる個性を持ちながら、どちらも「間違いない」という未来を提示してくる。合理的に考えれば、どちらを選んでも後悔はしないはずだ。むしろ、どちらを選んでも満足できる。それなのに――私は決断できない。
選択とは、本来もっと単純なものだ。
スペックを比較し、レビューを読み込み、予算と用途を照らし合わせる。それで答えは見つかる。だが、私の心は数字ではなく「情緒」に支配されていた。
M-IPT10MRSABKの洗練に触れると、自分まで少し背筋が伸びるような感覚になる。机の上を整え、余計なものを削ぎ落とした未来の自分を思い描ける。
一方、MX Ergo Sの実用性を思うと、長時間の作業を支えられている安心感が胸に広がる。「疲れても大丈夫だ」と言ってくれる伴走者がそこにいるようで、心がふっと和らぐ。
洗練と安心。憧れと実用。
その二つの間に立たされ、心は振り子のように揺れ続ける。どちらかを選ぶことは、もう片方を「選ばなかった未来」として手放すことだ。その小さな喪失感が、想像以上に重くのしかかってくる。
――選べない。
いや、選びたくないのかもしれない。
二つの軌跡は交わらない。だが、どちらも私の心の奥で強く光っている。まるで恋愛のようだ、と自分でも苦笑してしまう。どちらも魅力的で、どちらも正しい。そんなとき、人はどうすればいいのだろう。
買い物は、ただの選択ではない。そこには未来を映し出す小さなドラマがある。
私が迷い続けるのは、トラックボールマウスという道具を前にして、実は自分自身の「理性」と「感情」の間で葛藤しているからだ。
結論を出す日は、すぐそこまで来ているのかもしれない。けれど、今はまだ――この揺れそのものを楽しんでいたい。
選べない自分を責めるよりも、選べない時間に宿る豊かさを抱きしめながら。
選んだあとに残る余韻 ― トラックボールマウスが語りかける未来
決断とは、一瞬の出来事でありながら、心には長く尾を引くものだ。
たとえ合理的に選んだとしても、選ばなかったもう片方の影が、静かに心の片隅に居座り続ける。
もし私が M-IPT10MRSABK を手にしたなら、机の上には洗練と静けさが広がるだろう。黒を基調としたそのフォルムは、余計な迷いを削ぎ落とすように、毎日の作業を淡々と支えてくれる。見た目の美しさが心に秩序を与え、「選んでよかった」という安心が静かに積み重なっていくはずだ。
だが同時に、「MX Ergo Sの頼もしさはどんなものだったのか」という問いが、夜更けの作業中にふと蘇るかもしれない。
逆に、MX Ergo S を選んだとすれば、長い時間を共に過ごす心強さを享受できるだろう。角度を変えられる可動ヒンジは、手首を休める度に「ここにいるよ」と囁いてくれる。その頼もしさが、作業に没頭する未来を支えてくれるに違いない。
けれどもふとした瞬間に、「もしM-IPT10MRSABKを選んでいたら、もっと洗練された自分に出会えたのではないか」と想像してしまうかもしれない。
どちらを手にしても、きっと満足する。
どちらを選んでも、きっと正解だ。
それでも、人は「選ばなかった未来」に哀愁を覚えてしまう生き物なのだ。
トラックボールマウスという小さな道具を巡って、ここまで心を揺らす必要があるだろうか。合理的に考えれば「ただの買い物」だ。それでも、この揺れの中には確かに自分自身の欲望や価値観が映し出されている。
選んだあとに残る余韻は、もしかすると「未練」ではなく、「可能性」の証なのかもしれない。
私たちは日々、数え切れないほどの選択をしている。大きな決断もあれば、小さな買い物もある。そのどれもが未来の自分を形づくっていく。トラックボールマウスを選ぶことも、実はその一部でしかない。けれど、その小さな一部の中にこそ、人生の哀愁が宿るのだと思う。
――どちらを選んでも、私はきっと「選んでよかった」と思うだろう。
ただし、それは「もう片方を選ばなかった理由」を探す言い訳とともに。
そして、その言い訳こそが、選択のあとに残る一番人間らしい余韻なのだ。
選べなかった自分への小さな言い訳
気づけば、何日もブラウザのタブは閉じられないままだった。
ひとつには、洗練を象徴する M-IPT10MRSABK。
もうひとつには、頼もしさを誇る MX Ergo S。
画面に並ぶその二つは、まるで私の心の揺れを映し出す鏡のように光っていた。
本来なら、こんな些細な買い物はもっと簡単に終わるはずだった。
「レビューで評判がいいから」「値段と機能のバランスが優れているから」。
そんな合理的な理由を並べて、ぽちりと購入ボタンを押せばいい。
けれど、私はそれができなかった。
なぜなら、この迷いは単なるマウス選びではなく、私自身の「生き方の縮図」だったからだ。
理性で選ぶか、感情で選ぶか。洗練を求めるか、安心を求めるか。
その問いは、仕事にも日常にも、いつだって影のようについて回る。
だから私は、あえてこの葛藤を抱えたままにしている。
「まだ決められない」という時間にこそ、豊かさがあると信じたいのだ。
選べなかった自分を責めるのではなく、選べなかったこと自体をひとつの「物語」として残しておきたい。
レビューとは、本来なら選んだものの感想を書く場だ。
だが、ここで私が書き残したのは「選べなかった心の記録」。
スペックや使い勝手の比較よりも、この揺れ続けた時間こそが、何よりも真実なのだと思う。
――買い物は、選択ではなく、言い訳である。
「これを選んだから、こうなった」と自分を納得させるための、小さな物語の積み重ね。
そして今、私はこう言い訳をしている。
「まだどちらを選んでもいないのに、こんなにも心を揺らしてくれた。
それだけで、この二つのトラックボールマウスは、もう十分に私の人生に意味を持っている」と。
結局、どちらを選んでも後悔はしないだろう。
むしろ、どちらを選んでも言い訳を探すのだろう。
だからこそ、この葛藤の記録を残すことが、今の私にできる唯一の誠実さなのだ。
――選べなかった自分への、小さな言い訳。
その余韻こそが、レビューとして最も私らしい結論なのかもしれない。
――もし、細かなスペックや出力について気になる方は、公式のページをご覧いただきたい。
このレビューは、ひとつの答えにたどり着くまでの物語の途中です。
もしまだお読みでなければ、ぜひこちらもどうぞ。



